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馬と人の共生とは?

なんと今日でもう8日目となりました!

毎日が充実していて、時間が経つのがあっという間です。みんなとのこの生活もあと2日しかないと思うと少し寂しくなります。

今日はまた2人ずつに分かれてスタートしました!

私は馬のお世話を担当しました。新しい寝藁を入れたり、食べる用の草を用意したり、お水を入れたりしました。やっぱり大変ではあるけど、最初よりは慣れてきた感じがします。

その後は放牧中のポニーを馬房に連れて帰ったり、放牧場の柵を直したり、馬のブラシをしたりしました。気持ちよさそうにしているのがかわいかったです。

お昼ご飯の時に、船橋さんから馬の世界の現状についてのお話を聞かせていただきました。

中央競馬では3歳未勝利のレースがないため、中央で勝てなかった馬たちは地方競馬に回されることになります。そうすると、元々地方競馬にいた馬たちは居場所がなくなるため、行き場を見つけることができなければその馬たちは馬肉として消費されることになります。

日本では毎年約8000頭の馬が生産されており、中央から押し出されるような形で毎年沢山の馬が食用に回される訳ですが、それでも国内の需要を満たすことはできず、食用として馬を外国から輸入しているのが現状だそうです。

沢山馬を生産し、競馬で活躍できるもののみを厳選し、活躍できない馬はどこかで余生を送るか肉になる。これはある意味では、馬が無駄なく活用されていると見ることもでき、効率的なシステムであるということもできます。

それなのに国内の馬だけでは馬肉としての需要は満たせていないのはなぜなのだろうと思ったのですが、これは牛や豚との違いを聞いてわかった気がします。

馬は牛や豚に比べ妊娠期間が長く、一年に一度のペースでしか産まれてこないし、豚と違って一度に一頭しか産まれてきません。こういった違いから、農耕馬を除いて肉用として馬を飼育することはあまり行われていないそうです。結局、人間の馬肉を食べたいという欲望を満たそうとすれば、馬を家畜として飼うのが手っ取り早いけれど、それはなかなか難しいからだと考えることができそうです。

ではなぜ外国は馬を食用に日本に輸出する余裕があるのでしょうか?

気になったので少し調べてみたところ、そもそも海外では馬を食べない国が結構あることが大きな理由だと考えられそうです。

そのような国が馬を馬肉を食べる他の国に輸出している、と考えれば納得できます。例えば馬肉を食べない国であるカナダは、生産した馬肉の多くをヨーロッパなどに輸出しているそうで、日本もカナダから最も多くの馬肉を輸入しており、その量2653tは2位のメキシコ697tを大きく引き離して圧倒的です。(2016 財務省貿易統計)

このように、馬と食に関していろいろ調べているうちに、同じ馬でも国によってその存在の意味が大きく異なることもわかってきました。

例えば、イギリスでは馬をペットとして飼う人が多く、馬を食べることはほとんどありません。アメリカやブラジルなども、「馬は友達」といった感覚から、馬を食べることはないようです。このような国では馬と共に生きる文化が発達していると言えます。

日本においても昔は家に馬を飼っていて、農耕に利用するという文化がありましたが、現在ではみんなが農業をしているわけでもないし、農家であっても機械化が進み、馬を利用することはほとんどなくなったと思われます。

現在の日本では馬をペットとして飼うことは一般的ではありません。それは領土の狭さ、または山が多い地形ゆえでしょうか。それとも欧米人に対し比較的体つきの小さい私たちには大きくてたくましい馬はペットとしては馴染まないからでしょうか。

メジャーなペットである犬や猫の肉を私たちは食べません。だけど私たちはペットでない馬の肉は食べます。特に馬刺しのように馬肉を生で食べるのは極めて珍しい文化のようです。

家畜でもなく、ペットでもないとすれば、私たちにとって馬はどういう存在なのでしょうか。

牛や豚は、それがいいのかどうかは別として、家畜として「肉になるため」に生まれてきます。犬や猫は基本的に、ペットとして「人と暮らすため」に生まれてきます。

では馬はどうなのか、そう聞かれると、答えに迷います。競馬や馬術で「人を楽しませるため」?それとも「馬肉になるため」?

どちらも間違ってはいないのだと思います。でもどちらも違う気もします。

こう考えていくと、そもそも、私も含め人間は生きていますが、ではなぜ人間は産まれてきて生きているのでしょうか。人間が生きていることに「〇〇ため」という説明ができるでしょうか。

私にはこの〇〇の部分が思いつきません。人間は何かのお肉になるために生きているわけではないし、その存在が何かのためになるわけではありません。

とすると、人間が生きていること自体には何の意味もないということになります。

そうだとすると、馬だって犬だって猫だって牛だって豚だって、本当は生きていることに理由なんかなくていいはずです。

恐ろしいことですが、先に挙げた「〇〇ため」というのは、どれも人を中心に考えた時の目的であったことがわかります。

では、牛には牛、馬には馬の一生があるのだから、人間は牛を飼ったり、馬を食べたりするべきではないのか?

それもまた極端だと思います。牛や馬も生きているけど、人間だって生きています。生きていくために必要なものは食べます。それは牛も馬も一緒です。

ではそれは一体どこまで許されるのか。

難しいところです。心の底にはみんな、自分さえ快適に暮らせればそれでいいという思いがあるのだと思います。できることならおいしいお肉を安く買いたい。私だってそうです。

でも、自分達の生のために他の生き物の生を犠牲にするのだから、その命の扱い方は真剣に考えなければならないと思うし、向き合うことを避けてはいけない気がします。

「馬と人の共生」はとても素敵なワードです。しかし、簡単なことではないのも確かです。それでもそれを実現しようとして、実際にいろいろな取り組みをしている船橋さん達はすごくかっこいいなと思いました。

もう一つ、船橋さんや横浜さんの話からも感じたのは、何をするにも結局自分の生活がきちんと成り立つようなサイクルを確立しなければならないということです。

馬であれ何であれ、その生を大切にしようとすればその分コストがかかるし、まず自分がちゃんと生きられていなければそんなことをしている余裕はありません。なのでその収入をどこかから得る必要があります。

ここの場合は主にマッシュルームがそれに当たります。馬の居場所を作り、その堆肥を使ってマッシュルームを栽培して出荷し、収入を得、それを馬のために使うというサイクルは、持続可能なものであり、こういう取り組みが広まっていけばいいなと思いました。

全然考えがまとまらなくて、長々と書いてしまいましたが、今日はいろいろなことを考えました。

午後からの作業の前に、マッシュルームの収穫の様子を見せていただきました。

白い筋のようにしか見えなかった菌がこんなに大きなきのこになるのだと思うと驚きです!たくさん生えたマッシュルームは、ブラウンもホワイトももくもくとしていてなんだかかわいかったです。床詰めをして、しっかりと温度や湿度の管理がされて、やっとできたマッシュルームなのだと思うと、感慨深いです。

午後からはまた2人ずつに分かれましたが、私はマッシュルームのラップがけやシール貼りの方をやりました。こちらも慣れてきて、2人で連携しながら前よりは素早くできるようになってきました。

最終日まで残すところあと2日となりました。本当にあっという間で、すでにしみじみし始めている人もいましたが、残りの期間も楽しみながらできる限りのことを精一杯頑張ります!