沖島ボランティア3日目は、朝のゴミ拾いから始まり、鯉のぼりの準備、お寺で和尚さんの講話、山登り、お祭りの奉納儀式の見学と、夕方には宵宮と言っておみこしを神社にあげるイベントのお手伝いをしました。
沖島は島なので、当然ながら都会のようなアミューズメント施設やレジャー施設もなければ、コンビニ、飲食店もありません(おしゃれなカフェが数件ありますが、当然繁華街のような飲み屋やレストランとは異なります)。
それでも子供たちは山に登ったり外で学年入り混じって走り回ったりして楽しんでいますし、漁師さんたちは昼間から楽しそうに皆さん仲良くお酒を飲んでいます。(編注:この季節の漁は夜に行われるため、漁師さんにとって普通の人と昼夜が入れ替わっているため、昼間にお酒を飲んでいます。)
こんな風景を目にしていると、「便利さ」とはなんなのだろうかと考えさせられました。まだ整理がついていない部分もあるのですが、考えたことを少しだけ。
都会の人が「便利」と感じていることは不便だったことが便利になったのではなくて、先に製品やサービスが作られていって、需要を誘発される社会に慣れてしまった結果「便利」と思っているだけ(言い換えればそれがなければ「不便」と感じるような環境に置かれてしまって)なのではないか、と思います。
簡潔に言えば、便利さというのは、本当に困っていることを解消するために生まれるものもありますが、多くのものは「消費させられている」わけですね。
例えば、駅の近くにコンビニがないと「不便」と感じるのは、「コンビニ」を消費させられてしまった結果、それがないと「不便だ」と感じてしまう都合のいい消費者になっているような気がします。
作られた「便利さ」がない世界に来てだんだん慣れていくと、なければ無いで済むものはたくさんあるな(むしろあったら生活しにくくなる? )と感じました。
便利な世界=生活の満足度が高い、という訳でもない気がします。